1KBの価値 コラムつき

1KBくらいの長さだとしても、書きたいと思ったものを書きたい。

書きたくなった、主に映画のこと

最初、本が読みたいと思った。

何年か前からそう思う時があって、実際、何十冊も本棚に並んでいる。

その大半は中古品で、読み返す意思は今はない。

もう一度読むとしても、おそらく一握りの作品しかその機会がないんじゃないか。

 

それで、何を読もうか迷った。Safariのタブに候補に挙がった作品のAmazonの商品ページを何個も並べて──そんな風でしか「メモ」しか気分になれない。

未だに一つも読み始められない。映画ばかり見ているからなぁ。

 

いや、少し前に唐突に読んでしまった本、小説がある。それは映画の小説版だと思われたが、読み終えてみると実はただのノベライズ版だったと思う。

前にも同じ監督の映画を同じ著者で小説にしたものがあったが、そちらは視点が違ってて、アナザー・ストーリー的展開があったのだが。

実を言うと失敗だったかもしれないが、仕方ない。

最新作だからという理由だけで「本を先に、映画を後に」という同じことをやったのだから。

 

最近本を手に取らない人が増えたと言うけれど、私なんかはいくら惹かれても、読みたいと思ってもそれが最大の決め手にはならなくて、決めるとなると上記のような行き当たりばったりになってしまう。

おまけに映画の見放題サービスのように一本あたりの値段が低く、放っといても楽しめて、あるいは倍速機能で速く終わることはないのだから。

本当ねぇ、ここまで来ると本なんて活字なんて独りでどんな妄想も願望も言葉にできる原始的な武器に思えてくる。

こんなことぽちぽち打ってる自分がそうなんだけど。

あくまでもそこにしか長所が見出せないというか。

文学や映画もその一部を否定したくなる時がある。

 

勝手に移行しますが、映画だったら、評論家や関係者の集まりはなんか嫌だったり。

誰とは言わんがその人柄、言動はともかく、もっと嫌な「商売道具」としての映画が見えてくる。

私はただ見たいだけなのに、なぜか壁がある。何十年も映画を見て、作品を積み上げてきた人より、遥かに便利な時代に私はいるのに、もしかしたらその人たちより確実に侘しくなってる部分がある。

なんであと5年早く映画に出会えなかったのか?、なんであの映画を録画しておかなかったのか。

自分にも見逃してきた責任(=見る機会を逃した)はあるが。

 

「見る機会」なんて本当は今の時代にフェアじゃないな。

でも、昔のフィルムの映画をデジタルにするほうがおかしいのかな。

いや、今の時代だからデジタルにするのは完全に良いことなんだけど、だからって名画座でのデジタル上映を見に行きたいとは思わない。

デジタルがあるということは、お家でも同じものがいくらでも見られる可能性がある証左なのに。

ある監督の映画を4本くらい見ている。事前知識として私は洋画という洋画を見たことがない。なぜか韓国映画を数本楽しんだくらいで、いわゆるアジア圏から抜け出したことはただの一度もない。話戻る。その監督は一般的には評価されてる監督で、邦画の中でも特に評価の高い作品がいくつも並ぶ。しかし、私にとってはその評価の高い作品より、ひとつ低い作品のほうが好みだった。

 

映画にだっていろいろある。明らかに娯楽映画の域を出ないものは、誰が見たって最低限の評点があると感じるが、信念その他事情によりある一定以上の評価をされない映画も数え切れないほどある。それが単に娯楽の域を出ないからなのか、門を開けないからなのかは知らないが、なんとなくそういう空気のする映画を愛している。個人的な感じ方に意義を唱えるのは違うと思うが、いわゆる文芸作品を半ばスルーしてきたからか、未だに独特な好みが染み付いてしまっている。好み、別に恥じているわけではなく、大事にしたい感覚なのだが、圧倒的に歯痒い思いをするのはこちらだ。みんなと良い意味で逆行していくことが、個人の感じ方次第の映画作品では当たり前のようにある。ところが、一般的に限度ある面白さに門を開いて、面白さが広がった感覚になるのはどこから来ているのか。

RTA①

苦しくて、何もできないけど、かと言って発散するには寝るしかないんだよね。でも、ベッドはないし、睡魔はいつまで経ってもやって来ない。それでも起きていると腹が減ってしまうので、飯屋に入るんだけど、全然食が進まない。気になっていたエスカルゴの汁を一口だけ吸って、一匹かじっただけなのはあまりにも切ない。小皿に散乱するみじん切りの野菜とカタツムリ。朝方……周りは女子高生の集団とひとりでやって来た高齢者が目立つ。とにかくいま何かを食えるかどうかよりも息が苦しい。マスクをしたまま移動してきて、マスクをしたままの運動で死ぬ理由が伝わってくるようだ。トイレにも走った。男子トイレ、大便器はひとつだけだが、何分か閉じこもっていると落ち着いてきた。都合二回飛び込み、満たすものは満たした。通りに出てみるとバスが通り過ぎていった。暗くなってきた。つまらない。

 

結論:創作できなかった

本来こうあるべきじゃないものを仕上げるのって無茶苦茶で、やるべきじゃないな。だいたい全部思いつきじゃない。プロット立てたって、「関の山」がどこか知ってる。だんだん登頂した瞬間がわかってきちゃう。寝れないからね〜で始まる言葉を探す。寝れず。寝ず。根津。ふと浮かんできたものを大事に扱えば何かよくわからない未完のものができるんだろうね。ぷっつり切れてもいいから。

4位

東京都が平成30年に公表した、いわゆる地震危険度ランキングで「足立区千住大川町」が総合4位だった。また、同区のハザードマップでは周辺地域含めて浸水が2週間以上つづくとか。

そういった災害について書くつもりはないのだが、よく今後数十年での発生率が語られる直下型地震といったものがますます不安になるデータだった。

その町は荒川放水路に面していて、古い堤防の下にあるのだが、大川町氷川神社が大正時代に遷座してきたりと、荒川放水路の工事によって大きな影響を受けたとみえる。

河川敷は荒川放水路一帯と変わらず広々としていて、階段で堤防に上がるのだが、堤防は周囲の建物と同じくらいの高さでスカイツリーまで眺められた。荒川放水路の対岸に首都高の高架線があるのだけど、若干高低差の激しい区間である。

あちらから見てみたい気もするが、あまり長くは見ていられないだろう。たまには足を伸ばしたくなる気持ち良さなのだが、あくまで都会の、下町の一部と割り切るとわからない。

さまざまな印象を持たれるターミナル駅北千住からは徒歩圏内であり、趣旨は外れるが近くには下町たる所以が過去にはあったのだ。

0906

旅に出たい。

 

別に、一泊二日の観光旅行ではなくて、日帰り東京観光をやりたい。

 

でも、普通の東京観光はやり尽くしてしまった部分がある。

 

となると、趣味の交通をうまく使って動きたいと思うわけだ。

 

ところが、その計画は今年の春には考えていたのだが、3月下旬には無視できなくなった新型コロナウイルスの流行によって無期限延期とせざるを得なくなり──。

 

夏になって経済復興の動きに転じたが、猛暑は不快だし、どんな目に遭うかわからないため、結果的に今日までに実行できていない。

 

情けないことだ。

 

交通旅行とは、単純にテーマを絞れば何かが浮かび上がってくるものだ。

 

今回の計画は交通といってもバスなので、ルートを知り尽くせばあとは簡単だろう。

2020年夏の雑感

ここ最近ですけど、はてなブログに目を置けなくなってきている。そもそもたま〜に更新することがMottoなんでそれでいいんだけど、ブログとしてどうなんだって疑問もあってうまくまとまらないだろうけど、なんか思いついたことを書くのもありだということで進めます。

 

部屋にハエが湧いてしまって、ここ数日は食事のたびに鉢合わせてしまう。朝は出てこないのにね。早急にハエ取りを仕掛けたいが、動けない自分がいる。

 

リアルタイムの話だけどものすごく熱い日になってしまった。少し前の夏はどんな環境だったかが思いやられる。天気の話をすると今よりも20年前くらいのほうが激しい雷雨が多かったらしい。場所は東京だけど、最近とどう違うのかはよくわからない。

 

今年に入ってサブスク導入しましたんで、日々何か聴いておこうとして探し物をしているが、なかなか幅が広がらない。関連して、自分なりにいくつか極上のサウンドってのを求めてるけど、探すというよりは何気なく耳に入ってくるものが長い時間をかけてグッとくるようになるわけですよ。ひとつ例を上げるとサントラとかね。あれを最近集めてるけど、せいぜい数えるほどしかないのは物足りないな。

 

「あの映画を見たいがために◯◯を起こす」などという動機の輩は未来に現れるのか?封印作品や、単に需要の問題でCSですら流れない半封印作品へのあがきだけども、いつまでも文化を放置する連中がどうなるのかは気になっちゃうところ。もしそんな題材があったらスッキリできるのかな。だいたいフィルムだけ残して誰にも見せない方針に満足してるわけもないし、昔の商業映画なんかをお菓子みたいに誰の手にも渡ることができるようにすべきだと思う。一部の有名作品だけじゃなくて、まんべんなくね。

 

相変わらずですが1KBとすこしだけ書いてとっとと退散いたします。それでは。

あの頃、どこにある。

ネット界隈がアングラから脱し、そういった雰囲気を「あの頃」と呼び始めて久しい。

 

まだあの頃がつかめないでいる。約10年か、それとも20年後か。まだわからないが、もし今の時代からあの頃を求めるとするならば、何があの頃になるんだろう。今風に言えばInstagramYouTubeがもし終わってしまえば、一時代を塗り替えることになると思う。そんなに衝撃的な出来事があるならば、あっさりとあの頃が形成されていくだろうけど、それじゃ今の時代、何もかもが変わらなければ起こることはない。最近の例だと、2ちゃんねるだろうか。あくまで「2ch.net」のことになるが、そのサイトはもう2年近く前に終わっていることが、なんだか未だに信じられないのは、はっきり2ちゃんねるの形態や文化が消滅していないからではないか。Instagramは結構前からあったが、Twitterよりは後になって台頭してきたSNSだと記憶している。ということは、それより昔のサービスをどこかで塗り替えている部分があるのではないか。それならばYouTubeはどうか。ネット史でいえば元祖・動画配信サービスみたいな雰囲気で、毎年良くも悪くもアップデートされ続けている。ニコニコ動画のほうが印象的かもしれないが、あゝいった動画サイトの普及、即ち黎明期は何かしらの土台がありつつも、ひとつの文化を新たに作っていく過程と、作られていく過程という二つの見方が面白いんじゃないか。その辺りは、ニコニコ動画で言わせてもらえば未だに再生回数でトップの動画たちはその発展の恩義を強く受けたものばかりなので、まだ今からでも手が届くはずだ。

ならばもっと時代を遡り、20年以上前を見てみると、なかなかコンテンツは多い一方で、あまり実感の湧かないものばかりだ。この時代にあの頃を見出せないがために、「歴史上」というべき見方をしてしまうのはしょうがないことだが、やはり少し距離を取ってしまいがちだろう。よほどのことがない限り、アングラと思えなかったり、デザインのせいでまともな内容なのに色物に見えてしまう。いつしか気にならなくなり、時代の遺産と思うことにした。この言葉は結構重くて、なかなか突っ込まない部分なのだが。少なくとも、今・これからあの頃になっていくには、何かしら変革がなければならないだろう。あの頃には大前提としてネットの誕生・普及があり、メディア面ではVHS・MDからの移行、ハイビジョン制作なんてものも始まった。ところがそのあたりからマイナーチェンジとして若干発展するばかりで、一気に進化するような状況ではなくなっている。大抵のアプリが時間をかけてバージョンアップしていくように、こちらも波になりながらその進化に付き添っている。これからはそういったことが基本になり、アップデートの中に変革があるのかもしれないが、いまいち見えてこない。

別の2000年問題(ただし2020年限定)

重松清さんの『ビタミンF』を読みました。2000年に発行され、同年の第124回直木三十五賞も受賞しました。私は大衆小説的な作品を求める上で最もポピュラーな作品が並ぶ直木賞作品を意識して選んでいて、今作も前々から読もうと思っていましたが、だいぶずれ込んでしまいました。

 

当時のリアルタイムで30代後半くらいの人が主人公として描かれているのだけど、ある場面で少し考えさせられることがあった。あまり細かく書くとネタバレになってしまうのでその節は省くが、20年前(2000年)は当時の30代が振り返るところの80年代(=当時からみれば十数年前)より遠いことを考えてしまった。ミレニアムに敏感な私はその考え事で複雑な思いになってしまったのです。

いわゆる「少年」から「大人」になるよりも、「大人」になってからしばらく経った「中年」から「現在」の方がまもなく長くなるなんて、自分にはまだ遠いものだが、それでも確実に青春は過ぎているし、子どもの頃の十数年なんて自覚がないまま進んでいってることも、後になってわかってくるものだ。

当時の30代後半という前提で考えているが、少し上の年代にすれば「まもなく」でなく、すでに大人になってからのほうが長い時間が経っている。そりゃ、20年経っているから当然なのだが、まだ私は20年も昔と思いたくなかったり、たいして変わってないものと思いたいのかもしれない。

そもそもこの話題は、単に10年や20年周期に置き換えても当然のように成立する話だ。例えば2020年を「現在」としていても、2040年には2020年が先ほどの立場で言うと「2000年」とまったく同じ立場になってしまうわけである。

さっきからわざわざ当たり前のことを書いているのは、私が再確認したいことと、事実の重さがあるからだ。私や、同年代の人たちは2020年から2000年までの20年間を振り返ることが難しくても、2040年から2020年(あるいは、もう少し前)までの20年間を振り返ることは当然可能だろうから、未来とミレニアムへの愛情を込めました。

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ミレニアム周辺は、いつまでも追い求めていきたい時代。代表的なのは当時モノの映画やドラマ、ウェブサイトだけど、音楽や写真など、実際はなんでもいい。興味があればすべて別な見方ができるし、時には●●なんかも時代を読み解く重要な鍵になってくるので。夢というほどじゃないけど、いずれ今をミレニアムとその周辺の時代に重ねて見ることができたら最高だ。

ビタミンF(新潮文庫)

ビタミンF(新潮文庫)

 

2020年のひとこと

この前、雷が鳴った日。正確には雨ばかり屋根に打ち付けて、雷はほとんど遠雷しか聞こえなかったが、ああなると夜まで動かなかった。鳴り止んだ後のご飯は、危機感が抜けずにヒヤヒヤしながら食べた。

 

今、我が物顔で「ケータイなんていらないっすよ」と言っているヤツ(若者)を見たことがない。ケータイがおまけみたいでも、スマホがケータイ電話でなきゃいけない理由がちゃんとあるのかな。一言じゃ済まない。